
薬膳を学んでいるとメンタル面でのケアがどうしても必要なお客様がおられます。
傷付きやすく、落ち込みやすい自分を変えたいと薬膳をお求めになるんです。
私は薬膳以外にも心理学も学び、実践も積んできたので食べ物以外のケアも時にはします。
今日はお客様からご好評頂いている話を少しだけしましょう。
例えばあなたが山へ行ったとして。
とても立派な大樹を見たとしましょう。
その時、あなたが大樹を見ているのは事実です。
同時に大樹があなたに見られているのも事実。
では、どちらの表現が正確なのでしょうか?
今日はこんなところから話を始めていきましょうね。
私が見ているのか、私に見られているのか
私が大樹を見ている、大樹が私に見られている、どちらも正確な表現です。
私がここで伝えたいのは文法的な正誤ではなく解釈の仕方。
私が大樹を見ていると表現した時、大樹が私に見られているという事実は無意識的に捨てられています。
主体が『私』なのですから、『大樹』を主体に考えられません。
『私』が『大樹』が見ている、って日本語としておかしいですし、何を言っているのか分からないですよね。
逆に『大樹』が私に見られていると考えた場合も同様です。
『私』を主語にした解釈は捨てなければいけません。
『私』『大樹』のどちらを主語にしても構わないんです。
ただし、主語を『私』か『大樹』か選ぶ必要があり、『私』も『大樹』も、は不可能という事。
私たちは日常的にこのように物事を把握し、実は反対にある物事を捨て去っているんです。
無尽蔵に生まれていく解釈
私が大樹を見ているにしても、大樹が私に見られているにしても、私と大樹がその場に混然一体となって存在してます。
その時、大樹が私に見られているし、大樹が私を見ている、私が大樹に見られているし、私が大樹を見ている。
どちらとも言えるし、どちらとも言えないという不思議な状況が現実です。
どちらも主体になり得る、どちらも客体になり得る。
その後、どちらを主体にし客体にするのかは脳内で処理している解釈です。
現実にはどちらとも言えるし、言えない状況が生まれています。
その場に私と大樹がある、ただそれだけの事なのですが、その後の解釈は無尽蔵に増えていくものなんですよね。
無限に増えていく解釈に、実は落とし穴が待っています。
私が嫌っているAさん
先ほどは大樹と私を例にしましたが、これが私と私が嫌っているAさんだったらどうでしょう?
話は大樹と私のように単純ではありません。
- 私がAさんと目が合う
- Aさんが私から目をそらさない
- 私が激しい怒りを感じる
こういう事って日常的にとても多いですよね?
その後、私はAさんを余計に避けたり、衝突したくなるんです。
どうしてなのでしょう?
相手が大樹の場合には怒りなど生まれません。
しかし、相手が嫌いなAさんになった途端に怒りが生まれて来る訳です。
大樹も私から目をそらさないのに。
人であろうが大樹であろうが現実に起きている事は『向き合っているだけ』です。
違うのは『大樹』と『嫌いなAさん』という前提条件。

実はここに無尽蔵に生まれる解釈の悪影響が潜んでいます。
Aさんは前日の夜、彼に振られていたのだった
例えば、あなたと目が合う前日の夜、Aさんが彼氏とこんなやり取りをしていたのでした。

八時ちょうどのあずさ二号で、私はあなたから旅立ちます。

冗談はよし子さん。

これにて失礼、ドロン!

あたしはこんなにマブいのに……。
まいっちんぐ。
こうしてAさんは夜通し泣き続け無気力な状態で出社、私と目が合った事すら覚えていない始末。
私に対して敵意などなく、むしろ何も考えていなかったAさんと目が合い、私が独り相撲を取っていただけ、という展開なのかも。
もちろん、これは妄想です。
令和の時代に昭和のアベックみたいな会話をする人たちはいません。
では、考えてみましょう。
私はどうしてAさんと目が合って怒りを感じたのでしょうか?
【普段から反りが合わないAさんと目が合い、Aさんが視線をそらさなかった、つまりAさんが敵意を持っているから】怒りを感じました。
私がそのように解釈をしたから怒ったとも言えます。
これは先ほど吹き出しを使って見せた小芝居と変わらぬ思い込みかもしれません。
起きた現実は『Aさんと長めに視線が合った』だけなんですよね。
そこに敵意があるという私の『思い込み』が私の首を絞めたと言えます。
だって、『私』が『Aさんを見つめ続けた』とも言えるんですから。
Aさんから見れば『私』に敵意があったと思われてもおかしくありません。
最初にお伝えしたように脳内である解釈がなされると、その反対側にあるものが捨て去られます。
この場合、『私がAさんを見続けた』という解釈が抜け落ちているわけです。
あたしが全部悪いのね!
私はある出来事についての解釈には幅がある、と考えているだけです。
誰かに対して行動、言動の良し悪しを判定するつもりはありません。
私がAさんを見続けなければ良かった、だから私が悪いとも思いませんよ。
繰り返しになりますが、ある出来事についての解釈には幅があると考えているだけです。
そして、その解釈の幅の中に自分を健やかにしてくれるヒントが含まれている場合も多いと感じています。
例えばAさんが私を睨み付けていたと解釈するより、私がAさんを見続けて嫌な思いをしたから対策しようと思った方が、私にとっては良い事なんです。
Aさんは変えられませんが、自分の行動なら変えられますからね。
自分を変える方がストレスフリーで楽ちんなんですよ、私にとっては。
Aさんからの敵意に怒り狂うよりも、次は目が合っても自分から外せばいっか、と受け流す方が私にとっては健やかです。
人は物語を生きている
まずこちらの画像をご覧ください。
意味不明に並んだ4本の直線。
意味があるようには思えませんよね?
この画像について誰かに説明してくださいと言われたら、困ってしまいます。
では、こちらの画像ならばどうでしょう?
誰がどう見てもこれは四角形です。
無造作に並んでいる4本の直線を、ある規則に従って組み替えると四角形という意味を持ちます。
これなら理解しやすいですし、人にも伝えやすいですよね。
四角形と言えば、誰でも分かってくれますから。
実はこれが普段の生活の中で私たちがしている解釈の意味なんです。
私たちはある出来事の前後関係、前提などを解釈し、理解しやすいものに編集しています。
Aさんと私の例を取ってみましょう。
【現実に起きた出来事】
- Aさんと私が長めに視線を合わせた
この状態では最初に見せた無造作に直線が並んでいる状態なんです。
この出来事が起きた理由、つまり流れ、文脈を作っていく事で物語が完成します。
【脳内編集】
- Aさんと私は仲が悪い
- Aさんが私にする行動は大なり小なり悪意があるはず
- なんとAさんがこちらを凝視している
- きっと私の事が気に食わないので、何か言いたいんだろう
- だったらそう言えばいいのに、ただ睨み続けるなんて性質が悪い
- 助さん、角さんやっておしまいなさい
こうしてAさんと視線が合っただけという事実は、Aさんからの威嚇という物語に編集されます。
ただ目線が合っただけ、という現実をそのままにしておくには、何となく気分が悪いんです、人って。
だって、無造作に並んだ4本の直線より、四角形の方がすっきりしてますもん。
ただし、編集した物語が必ずしも現実と合致しない点はとても重要です。
分からない事だらけで良い
人生ってわからない事の連続です。
それで良いんだと思います。
人の気持ちも自分の体調も、明日の天気も何もかも確定的な事はありません。
だから、Aさんの気持ちも分からなくて良いんです。
知りたいのなら尋ねてみてください。
尋ね方にもちょっとしたコツがありますが、まずは向き合うという選択肢がある事を頭の片隅に置いておきましょう。
睨まれたからって萎縮する必要も、怒る必要もありません。
起きた出来事、特に自分に不快感やストレスを与える出来事は対策の必要性を訴えている自分の大切なSOS。
その声を聞いてあげましょう。
対策を打つにはまずは反対側から起きた出来事を確認してください。
『Aさん』が『私』を睨んだのか、『私』が『Aさん』を凝視したのか。
【自分がいけないんだ】【自分が悪かっただけなんだ】と思うのではなく、隠されている可能性を見付ける為にやってくださいね。
そして、SOSを出してくれた自分の心の声を労わってあげましょう。
『もう大丈夫、お陰で次からは今よりうまくやれるよ!』みたいに。
まとめ

思いのほか長い記事になっちゃった!
私は中医薬膳学を学んでいます。
中医学は人全体を見詰める学問です。
心の痛みに寄り添う事も、国際薬膳師の大切なお仕事なんですよね。
まずは薬膳の力でサポートしていますが、必要ならばカウンセリングなども行っているのはその為です。
少しでも気持ちを楽に、精力的に日々を過ごしてもらいたいなぁ、と思っています。
その為のお手伝いが私に出来そうなら、ぜひご連絡ください。
大人数を相手にするのは苦手ですが、一人に対して全力を注ぐのは得意なので。

最後までご覧くださり、ありがとうございました。
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